一人暮し

 ある秋の暮れだった。焼酎のウーロン割りを飲もうと冷蔵庫を開けたが数本緑茶のペットボトルが入っているのみで他は何もなかった。酒はうちを酒場だと勘違いしている馬鹿な友が置いていくので空いているのか入っているのかも分からない瓶が床に転がり落ちている。きっとその中に焼酎もあるだろう。まあいい、ウーロン茶くらいなら近くの自販機にでも売っているだろう。適当な上着を羽織って部屋着のままスリッパで部屋を出た。

 外は澄んだ空気の匂いがした。暫く部屋から出ない間に冬が迫っていることは知らなかった。近所の全品100円の自販機にはウーロン茶がなかった。他の自販機をいくつかまわってようやく見つけた。ウーロン茶は150円だった。150円入れた。ボタンを押したが反応はなかった。何度押しても意味がなく、返金しようとレバーを引いたがお金は返ってこなかった。しょうがない、ウーロン茶の代わりに緑茶で割ろう。逆光の夕日に眼をすぼめていると、狭い道にバイクの排ガスが吹き抜け何かが落ちた。振り返ると封筒だった。郵便屋は落としたことに気づかなかったようで、もう先の角を曲がってしまった。僕は夢を見ている気がしてひとりでに家に引き返した。

 部屋に中身が入っている焼酎の瓶はなかった。

 

 実家が嫌いだった。毎朝6時ごろ階下で母が僕の名を叫んで叩き起こす。布団の中でぐずぐずしていると何度も何度も名前を呼ぶ。どんどんと足音を立てて階段を上って部屋に押し入り「正一、朝!」と言って布団を引っ剥がし、にんまりと笑って扉も閉めずにばたばたと出ていく。僕はいつも昨日の夜扉の鍵を閉めておけばよかったと後悔しながら起き上がり扉と鍵を閉めもう一度布団を被って眠る。母は一度僕を起こすと満足して二度は起こさない。次に僕が目を覚ますのは9時ごろだった。夜は僕が灯りを消し布団に潜って目を閉じ寝ようとする頃、仕事から帰った父がそっと部屋に入り「正一、今日は勉強できたか?」と聞く。父には以前勉強が手につかないことを相談していた。正直に「今日も全然できなかった」と言う僕に父は「ちゃんと勉強しなきゃダメじゃないか」と叱った。部屋に入る時に父が灯りを付けるようになってから「もう直ったから大丈夫、ありがとう」と言ってみた。その後も3日間は父は部屋に入って灯りを点け続けたが、ありがとうと言っていたら入ってこなくなった。学問はますます荒んだ。父は部屋を出ていく時に扉を閉めて行った。おかげで鍵を閉めるだけはせずに済んだ。早く実家を出たかったが、受験した地方の国立大学は尽く不合格で仕方なく都内の私立大学に通うことにした。学費が高く父は家から通えるのだから家から通えと言った。しかし暫く家から通学しても家を出たいという気持ちは変わらず、一人暮しを決心した。父に伝えるとやはり反対したが、一年粘り強く訴えてようやく認められた。僕は一人暮しを始めた。

 

 月曜一限の憂鬱な対面授業のために家を出た。全部欠席では単位が危うい。昨夜たくさん酒を飲んだせいで頭痛がした。早朝はあまりに寒かったのでダウンジャケットの上にコートを着てきたが、平日朝の空気に急かされて速足で歩かされた人々が乗る満員電車は熱気と湿気で不快だった。つまらない講義を聞き、ときどき会う大学の友達と飯を食べ、適当に遊びに付き合っているうちに雨が降り出した。彼は傘を持っていなかったようで、本格的に降り出す前に帰ると言って解散した。僕は長傘を持っていたが、鞄の中に折り畳み傘が入っていることは忘れていた。帰り路、もう家はすぐだったが手が冷えてしょうがないので自販機であたたかいココアを買った。取り出し口に手を伸ばすと、横の花壇の元にくしゃくしゃによれ曲がって濡れ、足跡のついた白い洋封筒を見つけた。消印は押されているが宛名はかすれてしまって読めない。手に取って裏返してみると封は閉じたままだった。どうせここに打ちやられても本人の元に届くわけでもないし宛名のない汚い手紙なんて読まないだろう。ぐしゃぐしゃの手紙の中身が何となく気になってココアと一緒にポケットの中に入れた。

 さっき買ったココアはまだあたたかかったが、家に入ると急に冷たい雨の降る窓際でコーヒーを飲みながら小説を読みたくなった。ダッフルコートのポケットからココアを取り出し、缶にへばりついていた封筒はストーブをつけてその風の当たるところに置いた。コーヒーにはこだわりがあった。台所にはコーヒーミル、サイフォン、ドリッパー、コーヒー専用のケトルがある。ケトルに水を入れて火にかけた。サイフォンとドリップのどちらにしようか迷ったが、洗うのが面倒なのでドリップにした。ずいぶん前に買ったコーヒー豆は酸化し湿気ていた。それでもコーヒーミルで挽くと香ばしい匂いが漂ってきた。そう、これこれ。コーヒーは飲んで味わうだけが良いのではない。それにかける手間、挽く間の香りまでが気分を高めてくれる。と、楽しんでいるうちに湯が沸いた。ドリッパーにフィルターをセットし挽いた豆を入れ湯を注ぐ。湯気が立つ。香りが咲く。僕は部屋に包まれて、部屋は僕に包まれる。

 お気に入りのカップを片手に本棚から本を1冊選び窓際に向かう途中、テーブルの上に封筒があった。そうだ、落ちていた封筒を乾かしていたのだった。いつまでも暖まらないぼろ部屋だが、封筒は乾いたようだ。少し明るい窓際の椅子に腰かけ、封を開けた。中には手書きの便箋が入っていて、辛うじて文字を読むことができた。僕はコーヒーを飲みながら手紙を読み始めた。

 

 本当はこんなこと直接会って伝えなければいけない、あるいは伝えないで仕舞っておかなければいけないと分かっています。けど私の中に置きっぱなしにはできないから手紙で伝えます。ごめんなさい。あなたとはもう会いたくない、会えない。私はあなたを見ずに私の中にいる理想の人をあなたに映していたの。物心ついたときからずっとこころがぽっかりと開いていた。何をしても満たされず、いつも将来の不安でふさぎこんでいたわ。それでお父さんやお母さんも私のことを心配して色々な習い事をさせたりアドバイスをしてくれたけどだめだった。何をしてもつまらない、何をしても退屈だった。でもそんな幼いころの私にも一つだけ退屈な世界から逃れられる場所がありました。それは物語の世界でした。私は本が好きです。私が初めて読んだ、そして今でも一番好きな本は、私のように何をしても退屈だと思っている主人公の女の子がある男の子と出会ってお互いのことをよく理解していくお話です。その女の子は何にも興味をそそられないと思っていたけれど、男の子と話しているうちに自分を認められるようになっていきます。そして二人はずっと一緒にいて支え合うことを誓います。あなたはベタな話だと嗤うでしょうけど、私、この本を読んで世界の見方が全く変わったの。世界がこんなにカラフルだなんて今まで気づかなかった。私もこんな男の子と付き合いたいな、という夢ができました。私は一生懸命がんばったのよ。些細な話題でもあなたに話しかけてみたり、隣を歩くときに手が触れる距離に近づいてみたり。でも何の意味もなかった。あなたは分かってくれなかった。それにあなたは他の女の子と話しているとき、私と話しているよりずっと楽しそうで優しかった。あなたは私の目がかわいいと言ったけど、こんな一重で左右非対称なひどい目がかわいいなんて嘘、私が気づかないとでも思った?その日はあなたに見せたくて新しいイヤリングをしていたのに気づいてくれなかったの、ショックだったわ。そんな風に私が悶々としている中、あなたは突然ディナーに行こうと私を誘った。あんまりだわ。あの本を読んでからいつの間にか私の心の穴を素敵な人が満たしてくれる、その可能性でもう満たされたものと勘違いしていたの。でも実際は穴はずっと開いていたの。あなたなら私のことを分かってくれると思ってたのに。さようなら。

 

 鼻で笑いながら便箋を封筒に入れ窓際に置いた。哀れだから今度花壇の元に戻しておいてやろう。本人の元に届くかもね。

 彼は本を開いた。ココアはすっかり冷え、飲みかけの酒瓶に紛れて忘れ去られた。ぐしゃぐしゃの手紙が彼に宛てられたものであることに気づくことはない。